6000ヒットキリリク小説

希望の在処(ありか)




 診療保養所周辺の森が、色を変えはじめた。
 あおあおとした緑の葉が、ぽつりぽつりと黄色くなったかと思うと、数日も経たぬ間に森全体が変色した。木の上の方は燃えるように赤く、下にいくほど黄色かったり緑色が残っている。
 はらはらと落ちる木の葉を見て、木が病んでいるのかと思った。宿直の看護士にそれを話したら、
「紅葉ですよ。知らないんですか?」
 と、不思議がられた。秋になると、緑の葉が赤や黄色に色を変えるらしい。やがてそれは枯れ落ち、春には新しい木の葉が芽吹く。カナダでは、バイアンの故郷では、西に夕陽が沈むがごとく当たり前の風物詩らしい。
 わたしは、この景色をいっぺんで好きになった。
 日課である散歩の、楽しみが増した。
 木々を彩る紅葉は、やがて無数の落ち葉となって地面を覆った。まるで、真紅の絨毯だ。
 見た目には平坦な地面だが、森の道はけっこう起伏が激しい。車椅子で難儀する木の根や石が点在しているが、落ち葉がクッションになってバイアンへの負担は和らいでいるようである。
 わたしはできるだけ平らな場所を選んで、車椅子を固定させた。
「君の故国は美しいな」
 語りかけてもバイアンは、車椅子に腰かけたまま沈黙している。喋らないのではない。喋れないのだ。目は開いているものの、青い光彩には何も映っていない。
「この景色にも、思い出すものはないのか」
 生き生きと輝く森と、まるで生気のないバイアンを交互に見た。

 常夏の南太平洋に生まれたわたしは、虫や動植物といったさまざまな命が生きる森を知らなかった。わたしにとって世界とは、豊饒の海とわずかな緑と火山島だけだったのだから。
 難破船が垂れ流す重油が、この世の罪と汚れの象徴だった。粛正の後に出現する喜びの地は、澄んだ海と緑豊かな島々しか想像できなかった。海による粛正なのだから、海が失われることはない。なんと無知で気楽な断罪者だろう。

 だが、バイアンはカエデの森と、水瀬の美しい川と、村という共同体を知っていた。知っていながら、この森ごと全てが滅ぶことを望んでいたのだ。生きとし生きる全てのものを海に沈めたくなるほどの汚れと、彼はどこで出会ったのだろう。それとも、故郷だけは罪のない場所として救われると信じていたのだろうか。

 強い風が吹いて、落ち葉がバイアンの髪に付着した。
 わたしはそれを指でつまんだ。痩せて、キューティクルが失われた髪。艶やかな真紅の葉と対称的だ。この間にも、バイアンの表情は微動だにしない。まるで、精巧に作られた人形みたいだ。生きる喜びも希望もありはしない。
「帰ろうか。風が冷たくなってきた」
 午後の日はまだ傾く様子もないが、車椅子を押してきびすをかえした。
 バイアンに意識があったならば、笑われたかもしれない。
『こんな涼風が寒いだなんて、だらしがないな』と。
 この空みたいに青い目を細めて――。



 わたしたちは病室に戻った。
 8人収容の大部屋だが、他に患者はいない。多くの者は、快復して退院していった。もしくは、集中治療室に運ばれたまま帰らぬ人となった。
 ベッドに戻ったバイアンは、寝返りもうたずに白い天井を見上げている。何秒かに一度まばたきし、ふと気がつくと眠っている。
 床ずれしないよう、軽く体を動かしてやった。にも関わらず、まるで反応がない。

 バイアンが快復する見込みは薄い。生命を維持する点滴を外すか否かを、医師に一任されているぐらいだ。彼を生かし続ける費用については考えなくてよい、と言われたが、考えてもわからない。最新医療というものがどれほど高価なものなのか、紙幣すら数えるほどしか目にしたことのない人間にわかろうはずがない。
 そういうわけで、友の命はこのわたしに握られている。
 この、誇りも意識もない有様を「生きている」と呼んでよいのだろうか。わからない。だが、可能な限り、わたしは彼を生かし続けるだろう。意志も自我も剥奪されて生き永らえることが、彼の贖罪なのかもしれないから。そして彼の介護に生涯を費やすことが、わたしの贖罪なのだと思う。
 でなければ、今生きている理由がわからない。友に救われた命の意味も、だ。
 聖闘士たちとの戦いの後、気付くとわたしは地上に打ち上げられていた。近くの砂浜には、虫の息のバイアンが倒れていた。わたしは理解した。海底神殿の崩壊後、瀕死の彼がわたしを背負って脱出したのだと。
 わたしは再び気を失い、気がつくとカナダの診療保養所に搬送されていた。ソロ財団の私設病院で、世界中から貧しい難病患者が集まってくるという。
 死に近かったのは、双節棍にこの身を投げたわたしだっただろう。だが、わたしは快復した。バイアンは先に目を覚ましたが、ただ生きているだけの、自らの意志で立つことも座ることもできない状態で蘇生していた。食事さえ受け付けない体は、見る見る間にやせ衰えた。海将軍時代の堂々たる体躯が、幻のようだ。彼の身に起こる変化といえば、命綱である点滴がゆっくりと体に入ってゆくのみである。

 バイアンの介護が天命とはいえ、手持ちぶさたなので殆どの時間を本や新聞を読んで過ごしている。そして、ごくたまにテレビを見る。
 正直言うと、テレビは好きではない。最初こそ四角い箱にいろいろと映るのがおもしろかったが、毎日見てたら飽きてしまった。海を眺め、漁にいそしむ日々に倦んだことはないから、おそらくあまり健全な娯楽ではないのだろう。スペイン語の蔵書が少ないのは残念だが、書物の方がいい。性に合っている。自分のペースでページをめくれるからだと思う。テレビは情報量こそ豊富だが、おそろしく受動的だ。
 だがこの日は、珍しく民営放送チャンネルをあわせた。
 新聞で、気になる記事をひろったからだ。

『海商王ジュリアン・ソロ、善意の活動を追う』

 まさかこんなところで、あの御方の名に出会うとは思わなかった。
 もちろん、それを知らなかったわけではない。この病院で目を覚ました日に、ソレントから預かったという手紙を渡されたからだ。ソレントは、方々に手を尽くし、海将軍たちの安否を調査しているらしい。
 ジュリアンさまがポセイドンさまとしての記憶を失っていること、そのジュリアンさまが我々をソレントの友と知り、財団の診療保養所に搬送して手当を指示されたことなどが書かれていた。海底神殿が崩壊し、目覚める時期でなかったポセイドン様がふたたび眠りにつかれたことも。
 わたしたちは、いったい何のために戦ったのだろう。
 無自覚の罪に突き動かされ、ジュリアンさまは私財をなげうって贖罪の旅に出られた。記憶をなくされたにも関わらずわたしたちを見捨てなかった経緯に、心底頭がさがる。
 短い時間ではあったが、あの御方に仕えることができたことは、人生の誇りだ。
 もしも地上の粛正があの方の意志であれば、わたしは何度でもノアの大洪水に協力しただろう。この森の美しさを、村という共同体の善意を、あの頃よりはほんの少しだけ世界の広さを知った今でも、だ。人の道を外れていようが、あの方の選んだ道を生き、そして死のうとさえ思う。
 ひょっとしたら、バイアンも同じだったのかもしれない。あの方の勅命ならばと、麗らかな故郷を沈める覚悟を決めて仕えていたのかもしれない。
 だが、それはあの御方の希望ではなかった。無知なわたしたちは、あの方の望まぬ破壊に荷担してしまった。
 この罪を思うたび、絶望的な気持ちになる。
 体は快復したが、虚無感がつきまとって離れない。傍にバイアンがいなかったら、彼の介護という仕事がなかったら、気が狂っていたかもしれない。

 テレビから、懐かしくも美しい旋律が流れてきた。
 相変わらず、心にしみいるような音色だ。好きになれない四角い箱さえ、焦がれるように見つめてしまう。
 ジュリアンさまとソレントの慈善活動をコラージュし、ソレントの演奏を流す映像的な手法は気にくわないが、鳥がさえずるような高音を聞くと胸のあたりが強くふるえる。
 少女のような容貌ながらかなり毒舌なソレントは、大人のカノンを時々やりこめていた。『都会育ちは生意気で困る』とぼやいていたカノンを、眉間のしわを、いまでもはっきりと覚えている。
 神を利用してこの世を手中にと我策するような悪人には、とうてい見えなかった。わたしやバイアンはカノンを兄のように慕っていたのだから。ソレントの奏でるフルートを、三人岩陰に並んで聞いた日もある。
 物静かだが熱い魂をもっていたアイザック。
 何を考えているのか、どうしても読めなかったカーサ。
 真の武人と心から尊敬したクリシュナ。
 彼らは死んでしまったのだろうか。それとも、地上のどこかで生き永らえているのだろうか。だとしたら、何をして、何を思って日々を過ごしているのだろう。

 悔恨か。贖罪か。それとも――?

 ぱたん、と毛布を蹴る音に我にかえった。
 指一本動かす意志のなかったバイアンが、寝返りをうったのだ。寝たままの姿勢で、顔と体をテレビに向けている。何も映さなかった瞳が、食い入るようにソレントを、そしてジュリアンさまを見つめている。
「おまえ――!」
 わたしは驚愕した。あわてて体をささえ、ベッドの上に座らせてやった。
 バイアンは何も喋らない。ただ、テレビの画面を必死に見つめている。やがて、大粒の涙が頬を伝った。まばたきもせずに、ぽろぽろと、ぽろぽろと……。
 番組は終わった。画面からジュリアンさまもソレントも消え、演奏は途絶え、聞こえてくるのはやかましいだけのノイズに変わっても、バイアンは四角い箱を見続けている。
 わたしは手をあげて、白い病室にスキュラをおいた。
 誰もが目を奪われ足を止める美女にも、バイアンは眉ひとつ動かさない。
「友の技は、忘れたままか」
 わたしは苦笑いした。
 奇跡を前にすると、更なる奇跡を期待してしまう。愚かなことだ。
 だが、わたしは自らの本音を知った。植物状態がバイアンの運命ならば、変えたいのだ。罪ならば、許されたいのだ。諦めたふりをしていただけだ。元気なバイアンに、もう一度出会いたい。
 思えば、この男との出会いは海底神殿だった。手合わせをした際に『なんだ、男か』と言われた。イオという名から、女性と信じ込んでいたらしい。
 初対面で失礼なヤツだと、憮然として言い返した。
「ギリシャでは、イオは女性名かもしれないが。わたしは南太平洋の民だ。我々の言葉では、『魚』を意味する。最も尊い生命体だ」
 聞いたバイアンは、最初きょとんとして、それからわたしのつくりだした美女を指した。
『ふぅん。だが、はやりイオは女名の印象だな。いっそ、その子の名前にしたらどうだ? イオちゃんて感じしねぇ?』
「たわけが。これはスキュラだ。娘を含め、怪物全体がスキュラだ」
『そ、そうだったのかっ! はじめて知った……!』
 真顔だった。わたしは毒気を抜かれた。とまぁ、かなりとぼけた男だったのである。
 今の彼は、そんなやりとりすら忘却の彼方だ。
 もしかしたら、忘れてしまった方が幸せなのかもしれないが――。
「イ」
 その時、頑なな唇が横に開いた。
 わたしは目を見張り、バイアンの正面に立った。
 バイアンはふるえる指を難儀そうにあげて、あらぬ方向をさした。
「い、お」
 彼の差す方向には、スキュラが鎮座している。
 わたしはカクンと肩を落とし、苦笑した。
「ど阿呆。イオはわたしだ。あっちはスキュラだと説明しただろう?」
 スキュラを指し「いお」をくりかえすバイアンの肩を、倒れないように支えた。支えながら、苦笑が泣き笑いに変わった。わたしは泣いた。バイアンの肩を抱きながら、男泣きにむせび泣いた。
 バイアンは快復する。
 そう遠くない未来に、必ずや自分を取り戻すだろう。
 嵐が去った空に突然差した来光のように、心に光が宿った。
 わたしは思い出した。この感情を、「希望」と呼ぶのだと。









永遠の憂鬱(えいえんぶるー)/八咲様 
6000のキリバンを運よく踏みました。アスガルドサイト様にバイオを書いて貰うという
あつかまし過ぎる行為にも快く引き受けて下さる素敵なお嬢様ですよ!!(このチャレンジャーめ!!)
シリアスなお話で免疫のないレッツはちょっと照れちゃいますが素敵SSです。
有難う御座いました!!好きだーーーー!!結婚してくれーーーー!!八咲嬢!!!